第28号 『五蘊27 死出の衣を整えよ』についての質疑応答 (2014/06/芒種)
陰の力の「お迎え」
28号 ― 40話 『「五蘊27」についての質疑応答 』より 抜粋
お迎えと聞いて胡散臭く思われる会員諸氏もいるだろうが、臨終に際して人間が、お迎えと言われる体験をすることは、昔からよく耳にする。
物語や映画の世界でも、お迎えを題材にしているものは非常に多い。アンデルセンの『マッチ売りの少女』のラストに、少女が薄れていく意識の中でマッチを擦ると、光の中に亡くなったおばあさんが現れる場面があるが、これなど典型的なお迎え現象だろう。
高倉健と広末涼子が出演した映画『鉄道員(ぽっぽや)』は、死んだ娘が成長した姿で現れる。これもお迎え現象と言える。
私の祖母も、死ぬ数日前に、「おやじ(すでに死んだ祖父)が出てきて、話をした」と言っていた。20年以上も前に離婚していたにも関わらず、祖父が出てきたと言ったとき、私は祖母の死を悟った覚えがある。
この手の話は、「せん妄」や「幻覚」として処理されがちだ。しかし、2,000人以上の患者を看取ってきた医師が、正面からこの問題を取り上げている本があるので、ここでご紹介しながら、お迎えという現象が何を意味しているのか、私なりの見解を述べてみたい。
この本は、終末期のガン患者を中心に在宅緩和ケアの活動をしてきた岡部健医師へのインタビューをまとめた『看取り先生の遺言』(奥野修司著 文芸春秋)である。(中略)
岡部医師は、お迎えとは、ナチュラル・ダイイング・プロセスの、臨終に近づく段階で人間に起こる生理的現象ではないかと結論付けている。
私は、お迎え現象をどうとらえているのか。 結論から言うと、お迎え現象とは、
「陰の力が強くなり、死が迫っているときに、意識がそれを受け入れ、イメージ層を通して陰の力を認識している状態」だ。(中略)
彼らは、陰の力によって中陰に引き込まれようとしていることを、何となく感じている。しかし、
陰の力を直接認識できないため、死んだ家族や知人という、死にまつわるイメージを通して認識するのである。お迎えとして現れてくる姿は、個々に有するイメージ層のデータに過ぎないが、当人にとっては実在そのものであり、そういう意味では夢と似ている。
お迎えを見る人達は、文字通り“迎え”られており、そのことを受け入れている。だから、死に対して徒に恐怖を抱いたりせず、穏やかな最期を迎えられるのだ。
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