第39号 創運から見た初期仏教 その2 (2015.02.雨水)
唯識説と無意識のデータ
39号 ― 51 話 『創運から見た初期仏教・ヨーガ 』より 抜粋
根源体験から生まれた私の考えと、唯識説とは、どちらもヨーガの実習による体験に基づいており、次のような点が共通している。
・我々の行なった経験が、ココロの深層に蓄積される
・それらは具現する
・ココロの深層に蓄積されたデータ(種子)が輪廻の原動力になる
しかし、完全に一致しているわけではない。まず私は、
万物は心識の表れとはとらえない。次に、唯識説では、無限の過去から現在のこの刹那に至るまでの“一切の”経験が、輪廻を超えて蓄積されていると説くが、この点に関しても私の考えは異なる。
確かに、我々の経験はデータとして蓄積されるが、それが過去生から永遠に蓄積され続けているとは考えない。
我々の経験が蓄積される様態は、その“刻印性”によって異なるのである。
私はデータを次の5つに分類しており、1から5の順に、刻印性が弱くなっていく。
1 輪廻を超えて持ち越されるデータ
(甚大なショックを伴った経験・果てしなく繰り返された経験など)
2 中陰で消えるデータ
3 死とともに消えるデータ
4 生前に代謝されて消えるデータ
5 データにならない、雑多な知識や情報
輪廻を超えて持ち越されるのは、1の刻印性の強いデータのみであり、それ以外のデータは生前から中陰にかけて消えていく。強い感情などを伴わない、見聞きしただけの雑多な知識や情報は刻印性が弱いので、深い無意識層に蓄積されるにも至らない。
唯識説において、「すべてがアーラヤ識に蓄積され続ける」とするのは、この思想が生まれた当時、人間が接する情報量が現代とは比べものにならず、5に該当するものが非常に少なかったことが大きな要因と考える。
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