第45号 『五蘊38〜43』についての質疑応答 その3 (2013.10.寒露)
無意識を変える修行と自由意志 45号 ―59 話
『 「五蘊38〜43」についての質疑応答 その3 』より 抜粋
質問
瞑想修行によって、自由意志を制限している無意識層を変態させるような場合でも、「修行したい」という気持ちや行動を、自由意志では決めていないということなのでしょうか。
解答
『阿含経』や『倶舎論』からの出典がある以上、修行とは、もともとは初期仏教で使われていた用語であり、それが他の宗教や芸術・武術に転用されるようになったと思われる。
つまり、
修行という言葉で表現される行為は、本来、我々が随眠・煩悩・纏の働きに振り回されていることを前提とし、それを否定、克服しようとする要素(業の否定)を含んでいるということだ。
仏教以外に転用された場合でも、いわゆる煩悩的な諸々の欲求を抑えて、何事かを究めようとする、という要素が多分に含まれている。
以上を踏まえると、修行と自由意志との関係も自ずと見えてくる。
私は『五蘊40』において、「創運とは『もう一人の私(無意識)に影響され続けた表の私』が、『もう一人の私』に逆らいながら、『もう一人の私』の欲求を変えていくという行為である」と述べた。 この図式は修行においても同じで、「修行したい」という意志決定の背後には、必ず無意識の影響が存在しているのだ。
これゆえ、
瞑想修行が自由意志のみで始まることは絶対にない。特に、深い無意識層に入ることを目的とする瞑想修行は、その背後には必ず、無意識サイドからの強い働きかけが存在している。 無意識層への関心を昂進するような衝動エネルギーが、意識野に干渉しており、「修行したい」という気持ちは、その干渉を背景に生まれている。
ちなみに、会員諸氏は『どうなる28』の冒頭で述べた、立川談志の「落語は業の肯定である」という言葉を覚えているだろうか。これは、“わかっちゃいるけどやめられない”心の働きをはじめとする、人間のどうしようもなく愚かな部分を、落語によって皮肉り、戒め、ときには自虐しながら笑いにしてしまうという意味だ。
方向性としては修行とは全く逆なのだが、前提として「業」の存在があることは同じで、落語自体も修行(修業)のうえで成り立っているのだから、面白いと思う。
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